経済学に何ができるか 猪木武徳

人間は両立し得ない2つの欲求を同時に満たそうとすることがある。自由と平等のように。
この矛盾をうけいれたことを忘れがちで、かつ、忘れたことすら忘れている。

賢い人は、自分の中にいる、偏りのない観察者(inpartial spectator) にしたがって、公正で醒めた判断と行動ができる人間。弱い人は、世間からの称賛を求め、野心と虚栄心に突き動かされてしまう。
アダム・スミスは、この弱い人たちが他人から賞賛をうけたいと考えてきたからこそ、そのエネルギーによって経済社会はより多くの富を創造できたという。そしてその人間の弱さによって生じた富とエネルギーを、知性、賢明な判断力でコントロールすることが課題。

ところが経済学は、便宜的に人間性を限定して考え、モデル化する。合理的な計算のできる個人が契約をかわして社会を成立させたという前提でモデル分析をする。ルソーの社会契約説に基礎を持つ。

モデル分析は現実の経済社会を予想できない。外れたときに、なぜかという問いがうまれ、良質な理論ほどそのなぜかという問が本質的なものとなる。

消費の外部性
個人の自由と思われる消費行動にも心の行儀としての倫理が存在する。衝動買いして購入物を後に放置するような無駄、消費すべきときに出し渋る吝嗇(りんしょく)など。公害は、負の外部性の典型的な例。
次世代にどのような自然環境と社会環境を引き渡すかという持続可能性、世代間の公平性をかんがえて行動するべき。


交換の正義:資本主義は、市場取引の交換の正義を最優先するシステム。
分配の正義:結果の平等。交換の正義の行き過ぎを補正するためのシステム。
トマスアクぃナスは、分配の正義が社会の基本部分を構成し、そのうえで個々の私的な取引において交換の正義の概念をもつべきと主張。

経済学がもつ正義:
人間が矛盾した要素を同時に満たそうとする二重思考であるため一元的な原理で問題解決できない。
折衷的にならざるを得ない。
経済理論が現実に合わないこともある、その際、理論の仮定と前提に立ち返り考え直す必要がある。