満州事変から日中戦争へ 加藤陽子

1920年代、日本はヴェルサイユ・ワシントン体制と協調する道を選択した

 

韓国併合南満州、東部内蒙古の勢力範囲も、欧米ロシアなどの同意と承認があって初めて実現可能であった。

 

幣原外交は、満蒙権益は条約に基礎を置く確固としたもので、だれが中国を支配していても関係ない、中国に対する内政不干渉と、中国での日本の経済的利益拡大を図った。

 

石原完繭

満蒙権益により、世界恐慌時に軍事費を必要としない戦争が可能と断言し、持久戦が可能と国民を扇動。国防費負担軽減の経済効果のために軍縮を唱えていた人たちは、石原に傾倒していった。

石原は、1・ソ連が弱体な間に、2・中ソの関係が圧壊している間に、3・日本とソ連の将来の対峙する防衛ラインを国境の天然の要塞のある北西まで引き上げておくことだった。将来の対米戦争の補給基地としても満州は必要だった。

それは国民には伏せられ、条約を守らない中国、日本品をボイコットする中国という構図で感情的排外感情がつづいていった。

 

重光葵(まもる)広田こうき外務大臣をい支えた次官。中国は、日本の弱点は、アメリカ、ソ連との関係悪化としっていた。そのため、両国と関係を築こうとしていた。重光らは、先手をうって、両国をけん制。

 

盧溝橋事件と日中戦争

偶発的小衝突にすぎなかった盧溝橋事件。日本陸軍は、ソ連しか念頭になかったが、この事件を理由に戦費をかちとり、将来のソ連への軍事強化に費やした。60%は将来の戦費となった。問題は、この小衝突が、戦費獲得の名目的事件では終わらず宣戦布告のないままに国際戦争へ発展したことだった。

宣戦布告すれば、アメリカは中立となり、貿易、武器の輸入がとまり、事実上の経済封鎖となる。和平交渉も国内外の思惑ですすまず、長期化していった。

世界新秩序、超国家的東亜共同体という理屈がのちに広まっていった