高度成長 武田晴人
日本の独立は、アメリカの対アジア・太平洋地域の戦略の一環として成し遂げられた
もの。中国脅威論(米国)から、日華平和条約を結んだ相手は国民政府(台湾)だった。
高度成長の成長率目標は5%。生産性改善による失業を吸収するほどの成長としてはこのレベルが必要だった。
50年代前半:消費を抑制して投資を拡大させる政策スタンス
58-62年の5か年計画は、国民生活の質的向上を目指すものへと転換した
1950年代の景気の振幅は外貨準備の少なさからおこるものだった。朝鮮戦争特需で外貨を稼いだが、その後内需が強く経常収支赤字となると、投資削減、景気悪化となった。
これをあらかじめ抑制するため輸入を拡大させない、手段としての景気後退という策をとった
ストップアンドゴー政策といわれたゆえん(外貨がストップ、ゴーが設備投資)
流通革命:メーカーが流通網を系列化組織化し、顧客との接点をメーカー自身が構築する動き。
また小売業では、独自の仕入れルートを開拓した格安スーパーなどの出現もあった
1964年 東京オリンピック 国家予算の3分の1に上る金額(1兆円)が、施設建設、関連工事に費やされた。
1967年 資本取引の自由化基本方針:
外国企業が国内企業の株式を取得することに対する制限の撤去、合弁企業設立の際49%を超えて外国資本が株式所有できないという規制も緩和
1970年代の経営者資本主義
日本は相互持ち合いによって経営者の自律性を確保
米国は、株式所有の分散によってそれが確保されていた。
71年:二つのニクソンショック
中国訪問 中国孤立化政策の変更
変動相場制への移行(変動幅を拡大したスミソニアン協定は数年で終結)
74年 オイルショック
インフレ克服が最重要課題となる
総需要抑制策をはかり、公定歩合は9%まで引き上げられ(2%アップ)、74年の実質経済成長率はマイナスとなった。
この変動相場制への移行と、原材料価格高騰に対応した、減量経営の企業の自主的な経営力がその後の成長をもたらした。
85年 日米貿易摩擦
前川レポート:(中曽根首相の私的諮問機関の前川氏)内需拡大と規制緩和
アメリカへの市場開放、国民1人当たり100ドルずつ外国製品を多く買ってほしいとの呼びかけ
諸外国は、オイルショックのインフレ抑制のため長期に高金利を維持。成長率は低下し失業率高止まり。米国金利は大戦以降最高の14%の公定歩合。
こうしたなか日本に対して欧米諸国から輸出依存度を下げ内需拡大し、世界経済の先頭に立つことがもとめられた
円高対策として財政支出、金融緩和が推進され、膨大な余剰資金を抱えた企業が増加したにも関わらず、政府は、日米関係緊張を避けるため、内需拡大政策を維持し、投機的な価格上昇に懸念があっても金融引き締めをしなかった。そのためバブル経済へ
当初、雇用と失業の不安を解決する手段としての経済成長が自己目的化し、バブルへと突き進んだ