日本史の論点 中央新書編集部
大名の領地変更は、江戸時代頻繁に行われた。
参勤交代のため、時間をかけた領地運営ができないため、従来のやり方を踏襲することが多かった。前例主義。また、年貢を増加させたくとも、周りの藩よりも高いと農民の反感をあおり、トラブルのもとになるため、横並び主義も横行した。
大名は、御家断絶をさけるため、できる限り個性と独自性を弱め官僚化していた。
明治維新、全国の藩士は、何の反発もなく明治政府に土地と人民の返上を行ったが、これは在地性のない大名がおおかったからこそ可能であった。
これが、封建領主といえるかどうかは議論の余地がある
250年つづいた平和が実現されたのは、合理的、文明的な官僚システムと教育によって支えられ、江戸を中心とした均質化した列島社会がつくりだされた。
日清・日露戦争
この二つの戦争に勝利したが、膨大な戦費をまかなうため、長期にわたる増税が強いられ、国民の不満はたかまっていた。これが、政治参加の動機となり、ポーツマス条約に反対した日比谷焼き討ち事件をもって、大正デモクラシーの端緒とする。
吉田ドクトリン(吉田茂路線)
おもに1980年ころから使われるようになった用語。
アメリカとの同盟関係を基本とし、日本の安全保障を確保する。日本の防衛費は安く済み、その分、経済に注力できる。軽武装、経済重視。
負けっぷりよく、米国の占領政策をまるのみしたことで、日米関係が築かれた。
藤原道長の日常生活 倉本一宏
平安貴族の政務や儀式は質量ともに激烈なものだった。めったに休日もなく、政務は深夜まで続いた。
現代のようにさまざまな職種・職業のない時代、中央官人社会においての栄達だけが、子孫を存続させる唯一の方法だった。
当時は、儀式を先例通りに執り行うことが最大の政治の眼目だった。
最も重要な政務は人事(除目の儀)。序列を超えられることは、重大な出来事だった。
地震、疫病、天災のほかにも、迷信や禁忌、物忌み、ショクエ(触穢)などに極度におののき、密教の加持祈祷や陰陽道にすがって生活していたというイメージは定着しているように見える。しかし人間は与えられた歴史条件の下でしか生きることはできない。かれらはさまざまな不可思議な現象にたいして、精いっぱいの冷静さでもって、科学的に対処していた。
道長も、複雑な多面性をもった、小心と大胆、繊細と磊落(らいらく)、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断、人間であった。
これらは、摂関機という時代、また日本という国、人間自体が普遍的にもつ矛盾と多面性を、あれほどの権力者であったからこそ、一身で体現したが故であろうと考えられる。
満州事変から日中戦争へ 加藤陽子
1920年代、日本はヴェルサイユ・ワシントン体制と協調する道を選択した
韓国併合、南満州、東部内蒙古の勢力範囲も、欧米ロシアなどの同意と承認があって初めて実現可能であった。
幣原外交は、満蒙権益は条約に基礎を置く確固としたもので、だれが中国を支配していても関係ない、中国に対する内政不干渉と、中国での日本の経済的利益拡大を図った。
石原完繭
満蒙権益により、世界恐慌時に軍事費を必要としない戦争が可能と断言し、持久戦が可能と国民を扇動。国防費負担軽減の経済効果のために軍縮を唱えていた人たちは、石原に傾倒していった。
石原は、1・ソ連が弱体な間に、2・中ソの関係が圧壊している間に、3・日本とソ連の将来の対峙する防衛ラインを国境の天然の要塞のある北西まで引き上げておくことだった。将来の対米戦争の補給基地としても満州は必要だった。
それは国民には伏せられ、条約を守らない中国、日本品をボイコットする中国という構図で感情的排外感情がつづいていった。
重光葵(まもる)広田こうき外務大臣をい支えた次官。中国は、日本の弱点は、アメリカ、ソ連との関係悪化としっていた。そのため、両国と関係を築こうとしていた。重光らは、先手をうって、両国をけん制。
盧溝橋事件と日中戦争
偶発的小衝突にすぎなかった盧溝橋事件。日本陸軍は、ソ連しか念頭になかったが、この事件を理由に戦費をかちとり、将来のソ連への軍事強化に費やした。60%は将来の戦費となった。問題は、この小衝突が、戦費獲得の名目的事件では終わらず宣戦布告のないままに国際戦争へ発展したことだった。
宣戦布告すれば、アメリカは中立となり、貿易、武器の輸入がとまり、事実上の経済封鎖となる。和平交渉も国内外の思惑ですすまず、長期化していった。
世界新秩序、超国家的東亜共同体という理屈がのちに広まっていった
中国経済講義 梶谷 懐
資本過剰蓄積:
投資収益低下で消費の方が有利にもかかわらず、消費が抑制され資本投資が続くこと
1989-の江沢民の経済政策
海外資本誘致、国有地払い下げ、財政のインフラ投資。
胡錦濤(2002-2012)
これらの政策を加速して、労働分配率低下を招く。社会保障の遅れ、民間企業も貯蓄過大。
リーマンショックの対策4兆元投資も投資依存を加速。
レントシーキング:
特権階級が政府に働きかけて有利な政策をうたせること
トマ ピケティー
著書21世紀の資本で、所得格差拡大を指摘。
資本収益率がGDP成長率を上回る(r-g)ことは資本分配率(所得格差)拡大をもたらす
ルイスの転換点:
農村で余剰労働力が枯渇し低賃金労働力が無制限に供給されることが終わること
中国経済:
国家資本主義による発展モデル。
大規模な投資を迅速に実行できる一方統治メカニズムのチェックアンドバランスが効かない。
権威主義の政治体制、非民主的社会、自由闊達な民間経済。
5パーの国有企業が40パーの資産をもつ
山寨(さんさい)
日本の海賊版
アメリカ政治の壁 渡辺将人
理念の民主と利益の民主
共和党は理念に基づく訴えによって階層的利益に反する投票をさせる理念の政治利用に成功した
ハードハット暴動: 1970年ヘルメットの建設労働者たちがベトナム戦争抗議の学生を襲う事件。建設労働者たちにとって戦争はむしろ雇用を生み出すもの。大学生は働く必要なく戯れとしてデモ活動しているとの怒り。
彼らは利益の民主はニューディールの民主に近いが、理念の民主としては共和党より。
ティーパーティーでも結集するようになった。
このおかげで豊かな発展を遂げたが、一方、自由主義に対抗するイデオロギーが生まれなかった。
1929年の大恐慌でフランクリンルーズベルトのニューディールが、連邦政府による大規模な市場への介入となった
スーパーデリゲート: 特別代議員
党内の指名争いでポピュリズムに流れる歯止めとして党幹部の別枠の票を設けること。民主党はこの制度があり、共和党はなく、トランプが出てきてしまった。
キッシンジャー回想録 中国 ヘンリーキッシンジャー
儒教的考え。
個人的救済へと向かうものではなく、個人の正しい行動を通じた国家の救済を目的としていた。
個人の来世への道ではなく、現世の社会に向けて、社会的行動の規範を確認するもの。
軍事的思想とは区別され、心理的、政治的要素に重点が置かれている。戦わずしてかつ。
歴史のとらえ方:
西欧は、近代化のプロセスととらえる。後進性に対する一連の勝利。
中国の歴史観は、崩壊と再生の輪廻を強調する。
中国は、巨大な国力を活かして周辺国を権威の傘下には収めたが、他国を改宗させたり、文化的押しつけもなく、世界で最も豊かな国でありながら、貿易や技術革新に無関心だった。
西欧で大航海時代の始まりが起きていることも政治的エリートたちは見過ごしていた。まもなく自国を脅かすことになる技術的、歴史的潮流にも気が付かない。
比肩するもののない、広大な地理的広がりを持つ政治的単位という特異な帝国として近代を迎えざるを得なかった。
毛沢東の出現 1949年
反儒教主義者として古い秩序を破壊するために中国を粉々に破壊し、大衆のエネルギーを爆発させ昇華させることを考えた。
儒教的秩序が中国を弱体化させたと考え、革命のプロセスそのものを維持することが目的だった。
台湾危機 1954年
大陸から退却した蒋介石の国民党が、大陸に近い岩島の金門島、馬祖島をまだ占領していた。
大躍進 ー 百家争鳴
中国共産党が自らの運営に対し、意見と批判を求め、知識人や芸術家に自由に話をさせる、百家斎放、百家争鳴。階級闘争をおあるものだった。
毛沢東は、当初の意図はともかく、自らの権威にたいする挑戦を長くは我慢することはせず、急転換を行い、大規模な粛清を行った。何千人もの知識人が投獄され、再教育され、国内追放された。
この大躍進で、1959-1962には、人類史上最悪の飢饉がもたらされ、2000万人以上が死亡した。
紅江兵(こうえいへい):イデオロギー的熱狂で結びついた武装集団
毛沢東は、紅衛兵を使い、四旧(古い慣習う、古い思想、古い文化、古い風俗)を撲滅させるよう仕掛けた。
鄧小平
共産主義には似つかわしくない経済成長(二律背反)をもたらした。
鄧小平は、毛沢東が文化大革命を発動してまもなく、党と政府の役職を解かれ、地方に幽閉されていた。家族は、イデオロギー的に堕落しているとみなされ、長男は紅衛兵に拷問され、半身不随となった。
毛沢東が、周恩来を切ろうと考えた時、中国のかじ取りができる人間は鄧小平しかいなかった。(周は、毛に忠実でありつづけたが、文革のブレーキ役をになっていたナンバー2と言いわれた林彪(林彪)失脚、その後体調を壊していった)。
鄧小平はイデオロギー的締め付けをやめた。毛沢東があらゆる問題の解答を提示していた10年がおわり、自分の頭で考えることが推奨された。
しかし中国は民主化するには大きすぎ、無政府状態に陥ることを危惧し、共産党一党独裁は維持された。
大胆な改革は、政治的社会的軋轢をもたらし、1989年の天安門事件として爆発した。
鄧小平はそれでも、毛沢東の残した遺産を飼いならし、作り変えることによって改革を実行していった。
習近平の中国経済 石原亨一
富強、効率、公正のトリレンマ 3つ同時に満たすことはできない
2013年、全面的改革深化というスローガンのもと、習近平、李克強政権設立
国有企業のアイスキャンディー論:食べないでいると溶けてしまう。早く民営化するべき。。
1970年代から高度成長を遂げる一方、ウイグル族の独立運動(東トルキスタン運動)が続いた。1955年には、民族自治区となった。2009年には、197人が死亡するウルムチ騒乱発生。
経済成長は、中国全体のGDPの伸びに匹敵する二けた成長を続けた。
1)中央国有企業による、石油、天然ガス採掘、非鉄金属、電力事業 (中国の天然ガスはウイグル産出)
2)自治区政府の地方国有企業
3)ウイグル生産建設兵団(兵団)企業:政府、軍、企業が一体化された特殊企業
2014年の陸路シルクロード経済体構想(一帯一路)では、ウイグルは陸路の経済体の中心として位置づけられた。
対外開放政策に転じた1990年代後半以降、輸出は急拡大。ケチャップや綿織物が主要輸出製品
上記3)の兵団は、90%を漢族占め、第二次産業(食品加工、紡績、鉄鋼、石炭、建築材料)の発展に寄与。
兵団の人口はウイグルの12%程度。
兵団と、現地ウイグル族の所得格差も民族摩擦の要因の一つ。
兵団内でもウイグル人は下級労働者となるケースが多かった。
南ウイグルの貧困問題:
漢族の雇用主が農民工を雇うとき最低限漢語がわかることを要求されるが、ウイグル族は、漢語ができないため就業や賃金面でのハンディキャップがある。
言語のほか、食習慣、宗教(イスラム)も異なるため沿岸部への出稼ぎ者もすくない。
その漢族の、ウイグルでの農地請負面積が拡大し、当初は漢族経営者の親族を呼び寄せて労働させていたが、今はウイグル人を採用し綿花摘みの労働に従事させている。
本書では強制労働など人権問題への言及はない。